2024年を迎えました。今年もお付き合いのほど、よろしくお願いします。
早いもので、2000年代に入ってすでに四半世紀を迎えようとしています。
「ミレニアムな僕はどこにいるのか」
52年前高校2年生の時、人が生きるとは「いつ失くしてもおかしくない時間との闘いだ」ということに気づき、先のことは描かず「今を一生懸命生きよう」と思った自分にとって、唯一ともいえる「先々の自分への描き」をもちました。
それは20歳代1970年代からずっと、
「1999年12月31日の夜を誰とどこで過ごすんだろうか、そして2000年1月1日を誰とどこで迎えるんだろうか」
「2000年12月31日から2001年1月1日、つまり20世紀の終わりと21世紀の幕開けを誰とどこで過ごすんだろうか」
この2つのことが僕にとっての興味・関心事でした
そしてその結果は、どちらも「介護事業所で入居者と共に」でした。
もちろん、この未来は、20歳代国鉄マンだった僕に描けるはずもない想定外のことでしたが、その後、1987年、32歳の時に介護業界に入ってからは「あり得る」ことだと思ってきましたし、それを望んでいた節もあり、自分で勤務を組める位置にいましたから、すんなり実現させることもできました。
「スタートは今の僕を僕にしてくれた老人ホームから」
僕の興味・関心ごとの結果が「介護事業所で入居者と」になったのは、1987年、日本国有鉄道の民営化を機に、介護業界に入れていただいたからで、1989年までの2年間、特別養護老人ホームで介護職員(職名は寮父でしたね)として就労させていただきました。この2年間がなければ今の僕はないと言っても過言ではなく、人生に多大な影響を与えた出会いとなりました。
就労する前に、10日間の現場実習(いわゆる入社試験ですね)を受けることを求められましたが、有給休暇が足りず1週間で勘弁していただき、初めて「老人ホーム」というものを見聞きする機会を得ました。
全く知らない世界でしたから、見るもの触るもの「ナニコレ」って感じでしたが、唯一車いすの取り扱い方だけは「障がい者の列車の旅の運動」で教わりましたのでわかっていました。
「マジシャンからのガーゼ交換という洗礼」
その現場実習初日のことです。
それを意図的に見せられたものかどうかは知る由もありませんでしたが、衝撃的な光景を目にしました。
「和田さん、そこから見ててね」
と看護師長から指示を受け、お部屋(静養室というところ)の入口あたりから見たのは、ベッドに横たわる入居者への医療処置でした。
その光景に「エーッ!この看護師さん、手品師なんや」って、まじめにそう思ったのです。
というのも、看護師長が横たわっている入居者の背中からガーゼを出しまくっていて、それが「口の中からハンカチを出しまくる手品師」と同じに見えたからで、どうしてそうなっているのか意味がわからない僕にとっては「まさに手品!」でした。
後で知りましたがその入居者は、褥瘡で背中に僕のこぶしが入るほどの穴が開いている状態で、当時は、そこにガーゼを詰め込んでいたんですね。僕が見たのは、その取り換えだったんです。
この光景を初日に見せられた僕は、その日の夜、自分でつけることにした日記に
「この仕事は、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言える勇気が大事で、『わかったつもり』や『わかったふり』で従事したら人を死なせてしまいかねない。この1週間、入社試験だという気負いがあるなら、そんなもんはさっさと捨てて自分の素のままで挑み、それを見てもらおう。それでダメならあきらめよう」
と書きました。それは今でも保管しています。
「待ちわびた採用通知」
現場実習の最終日に、介護現場トップの方から「和田さん、この仕事は自分に向いていると思いますか」と聞かれ、生意気な僕は「向いているかどうかは皆さんが判断されること。やりたいかやりたくないかと問われれば、ぜひ、やらせてください」とお伝えしました。
その後、結果の連絡がなかなか来ず「ダメだったかな」と思っていたのですが、無事に採用に。連絡が遅れた理由はかなり迷われたからだそうで、最終的には「ちょっと毛色の変わった者が入ってもいいかなと思ったからだ」と後に聞きました。
あれから37年。あのとき採用していただけたことが今の自分の全てにつながっていますので、今でもその法人のトップにお会いすると、礼儀知らずの僕なのに何故か直立不動で突っ立ってしまいます。
人生が変わるひとつのきっかけをくれた恩人ですね。
「知りもしなかったグループホームでの挑戦」
それから12年後、1999年3月に東京都初の老人福祉法に基づく「痴呆対応型共同生活援助事業(以下 グループホーム)」に施設長として挑むことになりました。介護保険制度施行前年で、まだ行政措置の時代でした。
研修会や懇親会で「和田さんは、グループホームにいつ頃から興味を持たれたんですか」とよく聞かれますが、僕はそもそもグループホームに興味・関心はまったくありませんでした。
1998年の夏に、知人から「和田さん、グループホームって知ってますか。一緒にやりませんか」と誘われたときもそれを知りもせず「じゃあ、やるか」って感じでした。
というのも「介護の仕事」に就いて以降、一貫して追求したいと思ってきたのは「認知症という状態になっても人として生きていくためには」であり、それを従事した事業の中でひたすら追求してきただけのことで、「事業形態ありき」ではないんです。
ただ、事業によって「追求しやすいかどうか」があり、その意味でグループホームは非常に追求しやすい仕組みとしてスタートしており、これまたその後の人生を決定づける出会いとなりました。



コメント
コメント一覧 (2件)
コメント失礼します。
今回のコラムを読ませてもらい、私自身の介護という仕事との出会い、衝撃を思い出させられました。
私自身の介護職との出会いは、大学を志半ばで投げ出し、ただ何となくの行き当たりばったりのスタートでした。
それでも身内に福祉業界で働く者が多く、人よりは知っていると自負していたと思います。
けれども、勤務初日にその思いは見事に打ち砕かれたのを、和田さんのコラムを見て思い出しました。
私が職場として選んだのは特別養護老人ホーム。
(今思えば、施設に種類があることすら知らなかったと思います)
オムツ交換やるからと言われ付いて行った先にいたお年寄りは便まみれ。どうして顔に便が付いているのか全く理解できず。
その後も、話しが噛み合わないお年寄りとの会話や、突然に怒られる理不尽と、理解が出来ない事だらけの連続で、自分が老人ホームに植え付けた勝手な和やかで穏やかなイメージは諸共崩され、和田さんのように積極的に興味を追求したいと思えず、一日も早く辞めてしまいたいと思いました。
それでも何とかしがみついて働き続けました。この仕事の楽しさを噛み締めているだとか、認知症への理解はお手のものとは言い切れないけれど、誰かの支えになり、その人の人生に触れる事の出来るこの仕事への興味は深まり、どうすればその人らしい生活を出来るのかを追求したいと思える様になりました。
それでも、和田さんのコラムを読ませてもらうと、自分の介護への思いはまだまだ仕事としての思いが強いと感じ、道半ばだと思わされるばかりですが、だからこそもっと深みへ嵌まっていきたいと思わされました。
ムラタさんへ
コメント、ありがとうございます
ときどき、この仕事に就いたばかりの頃を思い返しますが、
あれから37年経った僕は、あの頃の足元にも及ばない僕になったのではないかと・・・
2003年に出版させていただいた著書「大逆転の痴呆ケア(中央法規出版 廃刊)」をまれに読み返すと、変な話ですが「こいつ、すごいなぁ」って驚きますもんね
ハハハ