※被災された皆様ならびに、亡くなられた方々へ謹んでお悔やみ申し上げます。
本インタビュー内では、当時の様子がリアルに語られます。配慮した言葉遣いとはしておりますが、ご不安に思われる可能性がある方は、閲覧をお控えください。


筑井 章介(ちくい あきよし)
愛の家グループホーム郡山日和田 ホーム長
愛の家グループホーム郡山日和田 ホーム長/2007年入社。
・地元に帰ることをきっかけに、少人数の介護を希望。管理者になることを目指して、「愛の家グループホーム郡山日和田」に入社。その後複数の事業所のホーム長を歴任
・ 趣味はキャンプ、息子さんのソフトボールの試合応援
※部署・役職は掲載時点です
2011年3月11日、愛の家グループホーム郡山日和田のユニットリーダーだった私は、夜勤の出勤を数時間後に控え、自宅でシャワーを浴びて頭を洗っていました。まさにその時、激しい揺れに襲われたのです。ガスも水道も止まり、頭は泡だらけのまま、外へ飛び出しました。
目の前では車が波打つように動き、隣の家が崩れている……。そんな状況の中でも、真っ先に頭に浮かんだのは「職場に行かなければならない」という強い使命感でした。
幼稚園にいた娘を迎えに行き、家族の安否を確認すると、すぐさま車を走らせました。
電話は一切通じませんでしたが、携帯のTV機能を活用し、ニュースで流れる「津波」の情報から、「これはただ事ではない」と、必死の思いで事業所を目指したのを覚えています。
18時過ぎ、ようやく辿り着いた「愛の家グループホーム郡山日和田」は、惨櫢(さんたん)たる状況でした。3階建ての建物のうち、3階部分は半壊。お風呂場が崩れ落ち、とても人が住める状態ではありませんでした。
しかし、そこには守らなければならないご利用者がいます。出勤できないスタッフも多い中、その場にいるスタッフたちで、3階にいたご利用者を一人ずつ抱え、階段を使って「おみこし」を担ぐようにして1階まで避難させました。誰にもケガもなく、無事だったことが何よりの幸いでした。
その後は、1階のフロアに畳を敷き詰め、27名全員が集まり、身を寄せ合って何日も過ごしました。電気、ガス、水道のすべてが止まっていました。
会社からの支援物資や援護が届くまでの数日間は、備蓄していた食料を調理し、水が出ないため、お風呂に溜めてあった水でトイレを流して凌ぎました。
地震の混乱が続く中、さらなる恐怖が襲いました。原発の水素爆発です。
放射能の影響を避けるため、事業所の換気扇を塞ぎ、目張りをして、外気が入らないようにして籠城(ろうじょう)生活を続けました。
近隣の避難所等への避難も検討したのですが、認知症のあるご利用者ということもあり、見知らぬ人達との接触が認知症状の悪化につながると考え、あえて事業所での避難生活を選択したのです。
当時、福島県内では「原発があるから得体の知れない」という風評被害もあり、県外へ行けば冷たい視線を浴びることもありました。
しかし、事業所の中では、スタッフとご利用者が一体となり、なんとか「いつもの日常」を取り戻そうと、必死に声を掛け合っていました。
ご利用者は、不安を感じている方もいましたが、大騒ぎをすることはありませんでした。
あの日、皆が何かを感じ取り、静かに、しかし力強く身を寄せ合って生きようとする姿は、今でも忘れられません。
あの経験を経て、私が次の世代に最も伝えたいのは、「日常は簡単に壊れる」ということです。
私たちが今、当たり前に仕事をし、家に帰れる生活は、奇跡のようなものです。介護の現場で接している目の前のご利用者とは、明日も必ず会えるとは限りません。
だからこそ、「今日一日、全力で向き合うことができたか」を常に自分に問い、後悔のないように働いてほしいのです。
介護職は、ただのお世話係ではありません。いかなる状況でもお客様に安心と安全を届ける専門職であり、サービス業です。
そして、地域の皆さまが「愛の家に相談すれば大丈夫だ」と思ってもらえるような、安心の窓口でありたいと考えています。
震災から15年。あの日の決断と経験を誇りに、私たちはこれからも「命を守る」仕事に真摯に向き合っていきます。
▶福島県の愛の家グループホームは こちら
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▶パート①は こちら