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超難関「特養介護職就労」時代

特別養護老人ホーム(以下 特養)で二年間介護職員として仕事をさせていただきましたが、事情あって一旦介護の仕事から離れることになりました。それでもいつかはまた、特養で介護の仕事に復帰したいと思っていましたので、知人を通じて介護関係者を紹介していただく道を模索していました。

1987年に国鉄から転職して特養で働き始めたときの介護職は「寮母」と呼ばれ、「子育てが終わった女性が働く高齢者の身の回りの世話をする場(老人ホーム)におけるお世話人」でした。

僕は男性なので「女性=寮母」に対して「寮父」という職名で男性数名の先輩がいましたが、全国的には男性介護職を雇っていた特養は極めて少なかったようです。その意味では、特養で介護職を目指す男性にとっては難関職業だったのでしょうが、そもそも特養で介護職として働きたいと願う男性も「超」がつくくらい少なかった時代ですね。

僕が介護業に転職した1987年は「社会福祉士法及び介護福祉士法」が成立・交付された年ではありましたが、まだ介護に関する資格はなく、介護職として就労する者は生活相談員や医療職を除けば多くはみんな未経験・無資格でした。

その後、1989年に介護福祉士の第一回試験が行われ、さらに1990年代に入って以降はぐんぐん国家資格介護福祉士有資格者が世の中に登場してきました。

僕が特養の介護職に復帰するために求職活動をしたのはその時ですから、今では信じられないほど超難関特養介護職就労時代突入で、特養の介護職に結び付きそうな保育士や栄養士なども含めて、何の資格も持たない僕がその仕事に就くことは極めてハードルが高く、しかも求職の場は見知らぬ東京でしたから、誰かの紹介という道しか僕には描けず、とにかく「つながり」に頼ることになりました。

やっと「この方を頼って行きなさい」と紹介があり、その現場を訪ねることになるのですが、そこは介護現場ではなくほぼ医療現場で、「ここは医療職がメインの施設。資格のない和田さんの仕事としては補助的な仕事しかありませんが、どうされますか」と気遣いを感じる言葉をかけていただきました。

僕はよくわからないなりにその方(ステキな方でした)からの大事なアドバイスと捉えて就労することを断念しましたが、今でも、そのアドバイスは的確だったし、ありがたいことだったと思えています。

 

ガ~ン! 男性介護職は採用しない

時間はかかりましたが、その次に紹介いただいたのは念願の特養の方でした。

100%特養介護職に返り咲けると思い込み、ルンルン気分で面接に挑みましたが、冒頭に「東京の特養では男性介護職は採用してないよ」と聞かされ愕然としました。

その理由を聞くと「過去に男性介護職員と女性介護職員が一緒に夜勤をすることで、いろいろあって…」とのことでした。

当時の介護現場は、まだ男性介護職は超少ない時代で、老人ホームで男性が介護職として勤めることがニュースになるような時代でしたから、そういうことが起こるとシャットダウンされてしまうのは致し方ないことと割り切れはしました。

むしろ先方の方が僕のことを気遣ってくれて「調理の仕事はどうだい。よければすぐに採用するけど」と言ってくれましたが「その仕事には関心がない」とお伝えすると、さらに「採用は終わっていると聞いているけど、新しい施設を立ち上げるための準備室があり、せっかくだから施設長になる方に会うだけ会ってみるかい」とまで言ってもらえ、その方につないでくれました。

こうしてブログを書いていると、時々、自分が通過してきた時間を遡って考察する瞬間がありますが、僕はホントに巡り合わせていただく方々に恵まれています。今でもそうですが、このとき準備室の方につないでいただけていなかったら今の僕はないですからね。

 

経験とはどれだけの時間をかけたかではなくどんな時間を過ごしたか

「和田さん、履歴書をお持ちいただいているようですが見せていただいていいですか」

実らなかった面接に持参した履歴書を見ていただくと、「和田さん、履歴書に書いてある〇〇ホームは、あの有名な施設ですよね」と確認され「そうだと思います」と答えると「そうでしたか」と驚かれました。

突然の面談(結果は面接でしたが)に応じてくれたのは老人デイサービス併設特別養護老人ホーム全体の施設長になる方と老人デイサービスセンター長(副施設長)になる方で、新しい施設を立ち上げるためにいくつもの施設を見学したり調べていたりしていて、僕が勤めていた特養のことも知っていて興味・関心があったようです。

そこから先は「運営上こういうところはどうすればいいか」「特養で工夫していたことは何か」など相談したい事項を中心に、
「介護福祉士の資格についてどう思うか」「職員さんが2週間程度の長期休暇をとれる施設にしたいのだが可能か」「制服についてどう思うか」「痴呆症専門棟の回廊式についてどう思っているか」「天下りの施設長についてどう思うか」「痴呆症(現認知症)の人への支援について」など矢継ぎ早の質問攻めにあい、そのひとつひとつに思いのたけをガンガン語らせていただきました。

2年間の介護職しか経験がない僕が、これから施設を立ち上げようという施設長の相談や質問にお応えできたのは、いろんなことを思考・試行・実践・検証していたからで、20歳代の時につかんだ言葉「経験とはどれだけの時間をかけたかではなくどんな時間を過ごしたか」が活きました。

帰り道、面接を振り返り「あれだけ言いたいこと言ったら絶対に採用されないよな」と半ば諦めましたし、結果、連絡もなかなか来なかったので本当にダメだと思い込んでいたのですが、忘れもしないクリスマスの日に電話が鳴り「和田さんが願う特養介護職は全員の採用が決まっていますが、老人デイサービスの介助員なら採用できます。

給料は介護職より安いけど、あなたは面白いからとにかくうちに来なさい。フリーターでぶらぶらしていてもしょうがないでしょ」との言葉を受けました。

もちろん「職務や給与はどうでもいいんです。とにかく介護現場に戻りたいので、ぜひお願いします」とお答えし、超難関の介護施設従事者として戻ることになりました。生涯忘れることのないクリスマスプレゼントです。

入職してから聞いたのですが、僕の履歴書には最終学歴のあと最初の就職先として「日本国有鉄道(以下 国鉄)」、その次の就職先「社会福祉法人〇〇特別養護老人ホーム」と記しており、当たり前のことですがどこで何をしてきた者か一目瞭然です。

面接のとき話題にされませんでしたが、国鉄が民営化されたときに自治体が国鉄職員の退職後の受入をやっていて、施設長になる方の現場にも元国鉄職員が部下として配属されてきたようで、その方が実に一生懸命仕事をされていたようです。

つまり、僕の前職の老人ホームに好印象を持っていた上に、元職である国鉄職員にも良いイメージしかなかったことが、僕を不採用にしなかった理由だったようです。

先人ってありがたいですね。僕も存在がありがたいと言ってもらえる先人にならねばですが、僕ではまだ修業が足りないです。

この時、新設の施設に入った同期には専門学校を卒業した男性介護職(介護福祉士有資格者)が結構な数いましたが、今思えば、施設長が目指したい施設づくりの一環だったのかもしれませんし、僕のような経歴の者が「環の構想」に入っていたのかもしれません。

 

介護職に復帰できなくてつかめた「アイデア預金イヤー」

1991年介護現場には戻れましたが、自分が願った特養介護職としての復帰は叶いませんでした。

介助員という職務は聞きなれないかもしれませんが、簡単に言えば介護職の補助職で、入浴サービスの送迎車運転ならびに移乗・移動介助は介助員がして、入浴介助は介護職の仕事って感じですかね。

ただ、何が功を奏すか先のことは誰にもわからないもので、施設長になる方からいただいた「介助員」という立ち位置は僕を活かしてくれました。というのも、僕の固定的な仕事は「老人デイサービスの入浴サービス送迎担当」だけで、あとはデイサービスのみならず併設の特養入居者ともかかわることができましたから、ほぼフリータイマー・バリアフリー職員状態。

施設全体の「てっぺん上司」に了解を得ておけば、自分勝手にデイサービス利用者・特養入居者と存分にかかわらせていただくことができ、僕の中の経験値を膨らませることにつなげられましたし、好き勝手にやらせてもらっていました。

ですから介助員としてのこの一年間は「キラキラ時間」で、施設運営や支援策への「アイデア貯金イヤー」となりました。マイナスもプラスなんです。

 

和田 行男 さん

1987年、日本国有鉄道から介護業界へ転身。1999年には、東京都初となる認知症高齢者グループホーム「こもれび」の施設長に就任した。