これまで当たり前にできていた「着替え」「ハサミや箸を使う」「歯を磨く」といった日常動作が、突然スムーズにできなくなったら、ご本人もご家族も大変戸惑うことでしょう。
手足に麻痺や筋力低下といった身体的な障害がないにもかかわらず、手順や動き方が分からなくなってしまう症状を「失行(しっこう)」と呼びます。失行は、認知症の中核症状(脳の障害によって直接起こる症状)の一つです。
ご家族が「なぜできないのか」という理由や背景を知らないと、無理にやらせようとしてお互いにストレスを抱えてしまう原因になります。
本記事では、失行の基本的な定義や発生原因をはじめ、失行の代表的な5つの種類、病院での診断方法、効果的なリハビリ・生活環境の工夫、ご家族の接し方まで分かりやすく解説します。

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1. 認知症による「失行(しっこう)」とは?
「失行」とは、手足の運動機能や感覚、意識に異常がないにもかかわらず、「意図した動作や道具の正しい操作が行えなくなる状態」を指します。
例えば、「ボタンを留める」「服の袖に腕を通す」「鍵を開ける」「ハサミで紙を切る」といった、これまで体に染みついていたはずの日常動作が正しくできなくなります。
「麻痺」「失認」との違い
違いを理解するために、似た症状と比較してみましょう。
| 症状の種類 | 主な状態と原因 | 具体的な例 |
|---|---|---|
| 失行(しっこう) | 運動機能は正常だが、動作の手順や道具の使い方が分からなくなる | 箸を持たされても、どう動かして食べ物を挟むかが分からない |
| 運動麻痺 | 脳や神経の障害により、手足の筋肉自体が動かない | 手が動かないため、箸を掴むこと自体ができない |
| 失認(しつにん) | 五感は正常だが、目で見ている物が何であるか認識できない | リンゴを見てもそれが「リンゴ(食べ物)」だと理解できない |
失行は「やりたい意図はあるのに、脳内で動作のプログラムがうまく組み立たない」ために生じる高次脳機能障害の一つです。
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2. 認知症によって失行が起こる理由と原因
なぜ、手足が動くのに複雑な動作ができなくなってしまうのでしょうか。その原因は脳の損傷にあります。
- 人間が複雑な動作をするとき、脳の「頭頂葉(とうちょうよう)」などで動作のイメージや順序(運動プログラム)が組み立てられる
- 認知症や脳血管障害によって頭頂葉やその周辺の神経ネットワークがダメージを受けると、動作のプログラムが記憶から呼び出せなくなる
- 結果として「筋肉は動くのに、どう動かせば良いか分からない」という失行症状があらわれる
原因となる主な疾患
失行を引き起こす代表的な病気には以下のようなものがあります。
- 認知症(アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症、前頭側頭型認知症など)
- 脳卒中・脳血管障害(脳梗塞、脳出血など)
- 脳腫瘍や頭部外傷
特にアルツハイマー型認知症などでは、病気の進行に伴って脳全体の萎縮が進み、初期から中期にかけて徐々に失行が目立つようになります。
3. 失行の主な5つの種類と具体例
「失行」と一言で言っても、障害を受ける脳の部位や動作の段階によって、いくつか異なるタイプに分類されます。代表的な5つの種類を解説します。
- 観念性失行(道具の使い方や一連の手順の忘却)
- 観念運動性失行(簡単なジェスチャーや動作の模倣の不能)
- 着衣失行(服の着方の忘却、表裏や上下の間違い)
- 肢節運動失行(手先や足先の細かな動作のぎこちなさ)
- 口腔顔面失行(口をすぼめる、舌を出すなどの顔の動作の不能)
① 観念性失行(かんねんせいしっこう)
使ってきた道具の「機能や使い方の順序(手順)」が分からなくなる状態です。単一の簡単な動作はできても、複数の行程が合わさった連続動作が困難になります。
具体的な例:
- お茶を淹れる際、急須に茶葉を入れずにそのままお湯を注ぐ行動
- 手紙を折って封筒に入れるという一連の作業の不能
- 歯ブラシに歯磨き粉を塗って口に運ぶ順番の忘却
② 観念運動性失行(かんねんうんどうせいしっこう)
指示された動作や、他人の動作を真似する「ジェスチャー」がうまくできなくなる状態です。日常で無意識に行っている時はできるのに、「〜してください」と意図的に求められるとできなくなる特徴があります。
具体的な例:
- 「手を振ってバイバイしてください」と言われても手がスムーズに動かない状態
- 「ジャンケンでグー・チョキ・パーを出して」と指示されると指が混乱する状態
- 目の前の介護者の動作を真似(模倣)しようとしても再現できない状態
③ 着衣失行(ちゃくいしっこう)
衣服の構造と自分の身体の位置関係が把握できなくなり、正しい順番や向きで着替えができなくなる状態です。アルツハイマー型認知症の中期以降によく見られます。
具体的な例:
- 上着の袖に足を通そうとしたり、ズボンを頭からかぶろうとする行動
- 服の前後や裏表を逆に着てしまう行動
- ボタンを掛け違える、またはボタンの留め方自体の忘却
④ 肢節運動失行(しせつうんどうしっこう)
手先や指先、足先などの末端部分を細かく不器用にしか動かせなくなる状態です。麻痺はないものの、運動のなめらかさが損なわれます。
具体的な例:
- 机の上にある小さなコインや鍵を指先でつまみ上げられない状態
- ポケットの中に手を入れようとしても指が引っかかってうまく入らない状態
⑤ 口腔顔面失行(こうくうがんめんしっこう)
顔や口元、舌などの筋肉を使った意図的な動作ができなくなる状態です。
具体的な例:
- 「舌を出してください」「口をすぼめて口笛を吹いてください」と言われても動かせない状態
- ろうそくの火を吹き消す動作の不能
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4. 失行の診断方法と検査
「単なる不器用なのか」「認知機能の低下による失行なのか」を確かめるため、専門医療機関(脳神経内科、物忘れ外来、精神科など)で診断を受けます。
医師による診察・動作テスト
- 道具の使用テスト:実際にハサミ、歯ブラシ、鍵などを持ってもらい、正しく使えるかの確認
- 模倣・ジェスチャーテスト:医師の動作(手を振る、敬礼する等)を真似できるかのテスト
- 問診:ご家族に対し、普段の食事、着替え、トイレなどの日常動作(ADL)での困りごとのヒアリング
画像検査(CT・MRI)
脳のどの部位に萎縮や損傷(梗塞や出血)が起こっているかを特定するため、MRIやCTなどの画像診断が行われます。
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5. 失行に対するリハビリテーションと生活上の工夫
失行を完全に治す特効薬や根本的な治療法は現時点では存在しません。
しかし、理学療法士(PT)や作業療法士(OT)による専門的なリハビリや、家庭での環境調整・サポートによって、日常の生活動作を維持し、混乱を最小限に抑えることが十分可能です。
主なリハビリ・対策アプローチは以下の4つです。
- 直接的方法(手を添えて一緒に動作を反復練習する)
- 代償的方法(目印や手順の図カードなど視覚的補助を活用する)
- 環境調整(使う道具を限定し、定位置を決めて混乱を防ぐ)
- 家族・介護者の理解とアプローチ(叱らず優しく誘導する)
① 直接的方法(身体誘導・反復訓練)
低下した動作を直接練習する方法です。ご本人の手の上に介護者が優しく手を添え、一緒に動かすことで「動作の手順や感覚」を思い出してもらいます。
ポイント:言葉だけで「こうやって動かして」と説明しても理解しにくいため、実際に手を動かして手本を示したり、身体を直接誘導することが大切です。
② 代償的方法(視覚・聴覚のサポート)
動作の手順や方向が分からなくなる失行に対し、視覚的な「目印」や「図(イラスト)」を活用して補助する方法です。
着衣失行の工夫:
- 服の前後に分かりやすい大きなラベルや目印用のシールの貼付
- 着る順番(①下着 → ②シャツ → ③上着)に合わせた服の配置
手順のカード化:
- 手洗いや歯磨きの手順を大きなイラスト付きの紙にして、洗面台の目の前に貼っておく工夫
③ 環境調整(混乱を減らす工夫)
身の回りのものをシンプルに整えることで、頭の混乱を防ぎます。
- 不要なものを片付ける:洗面台の化粧品等を減らし、歯ブラシとコップだけを置く工夫
- 物の定位置を決める:使用した道具を常に同じ場所に戻すルールの徹底
④ 家族・介護者へのサポートと接し方
介護者が失行という障害を正しく理解し、焦らず見守ることが何よりも大切です。
失敗しても責めない・叱らない:ご本人も「なぜか上手くできない」と強い焦りやショックを感じています。叱られると自尊心が傷つき、閉じこもりや周辺症状(抑うつや拒否)を招いてしまいます。
さりげなく手助けする:最初からすべてを代わりにやってしまうのではなく、詰まっている最初の工程(服の袖口に手を通すきっかけ作りなど)だけをサポートし、できる部分はご本人にやっていただきます。
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6. まとめ
今回の重要ポイントを振り返ります。
- 失行とは:手足の運動麻痺がないにもかかわらず、道具の操作や日常の基本動作ができなくなる症状
- 原因:脳の頭頂葉など、運動のイメージや手順を司る部位の損傷や萎縮によるもの
- 主な種類:観念性失行(道具の手順が分からない)、観念運動性失行(模倣できない)、着衣失行(服が着られない)など
- リハビリと対策:手を添えた動作の練習(直接法)、服の目印や手順図(代償法)、使う道具を減らす(環境調整)が有効
- 接し方:動作ができなくても無理に責めず、ご本人の気持ちに寄り添って部分的なサポートを行う
失行の症状があらわれると、ご家族も戸惑いを感じやすいですが、障害の特性を正しく理解することで、安全で穏やかな生活環境を整えることができます。
ケアマネジャーや作業療法士などの専門職とも相談しながら、ご本人ができることを活かせるアプローチを取り入れていきましょう。

