2026年、やるべきことに追われているというよりも暦に追われている感が強くあり、気づけば早くも15日、ビックリで、どんどん「日」が通り過ぎていく感じです。
「外に出たい・散歩したい」を応援する
小規模多機能型居宅介護(以下 小規模多機能)を利用しているガンさん(仮名)は、住んでいるアパートの大家さんのお力添えを得て何とか一人暮らしを続けていましたが、
認知症の状態にあり且つ、大家さんが入院することになってしまい、小規模多機能で「通いサービス」と「宿泊サービス」を連続して使い、実質「小規模多機能」で暮らすことになってしまいました。
ガンさんは一生懸命働いてこられた甲斐もあって、年金と預貯金で何とか自宅のアパートを維持しつつ小規模多機能をフル活用して現在の生活を維持してきましたが、
いよいよ預貯金が底をつき、今のまま小規模多機能フル活用の生活を続けることが難しくなり、併設するグループホームへの入居を検討しました。
でも、グループホームに入居すると入居費を支払ったあと「手元に残るお金がごくわずか」になり、
成年後見人が入居を認めず、収入で余裕をもって入所できる特養多床室の入所申し込みをされてしまいました。
ここまでの話なら「しょうがない」で聞き終えるしかないのですが、
実はガンさんは「歩きたい」と、1日数度、小規模多機能からフラッと外に出られる方であり、
その小規模多機能は、それを応援していた事業所なので、僕のブログに登場することになりました。
小規模多機能の職員から話を聞くと、身寄りがなく一人暮らしをしていたガンさんは、小規模多機能を利用する前から散歩が好きで、よくぶらついていたようです。
自宅周りは、ガンさんを知る人たち同士が「ガンさん、あっちで見たよ」なんて情報交換するなどサポートしてくれていたのと長年見慣れた景色の中だったので、自宅から出て行かれても自宅に戻ってこれていたようですが、
そのうちガンさんをサポートする人たちから「ガンさんに何かがあってはいけない」とのことで靴にGPSを装着したようです。
ですから小規模多機能の職員は、フラッと出て行かれたあとGPSで場所を確認して迎えに行っているとのこと。
そのガンさんが特養に入所となると気になるのは「外に出られるように応援してくれるかどうか」で、
それはガンさんの人生にかかわることなので小規模多機能の職員が特養の方に聞くと「施設の中は広いですから」とのお答えだったようです。
人生の最後の暮らしの場が「あきらめさせ場」にならないようにしたいね
認知症という状態になる前まで、人の力を借りて生きるしかない要介護状態になる前まで一生懸命働いて貯金し年金をもらえるガンさん(日本人)が、
人生の最後になるであろう暮らしの場が「そこなんか」と思うと、悔しくて、悔しくて・・・。
これはガンさんだけのことではなく、日本中で起こっているんじゃないかと思いますし、その特養に対して不満をもっているわけではありません。
そうせざるを得ない状況は踏めているつもりなので。
ガンさんは「年金だけじゃやや足りず、グループホームへの入居がかなわず」なのですが、
これが年金じゃなく生活保護受給なら成年後見人が反対するとは思えないので併設するグループホームに入居でき、
これまでと変わらぬ景色の中で、これまでと変わらずブラっと散歩に出かけることができる暮らしを継続できたであろうと考えると、
理不尽でならん!わけです。
あちこちの研修や行政の運営指導等で「ガンさん(本人)の思いや人生を応援することが支援する者としての考え方の軸だ」と言われ、
認知症になっても基本的人権は享有と謳う法律を重ねている我が国にあって「施設からふらっと外に出ることをどうやったら応援できるか」を実行力をもってサポートする仕組みができないものかと悔しがっているだけです。
わかりやすく言えば
「認知症=なじみが大事・生活の連続性が大事=適している環境を変えない=今のままが良い
☞ところが、今のままでは自己資金が不足する=不足分を補う仕組みが必要
☞日本では〇〇がそれにあたる」
というように策が講じられる公的な仕組みが欲しいということです。
もちろん、すべての介護事業所がそのように対応しようとする事業所になれば済む話なんですが、
それにはあまりに時間がかかりすぎるし、僕ら事業者が持ち出したんでは仕組みが歪みますからね。
まだ、ガンさんは入所していないようなので、最後まであきらめず知恵を振り絞りたいもんです。
せめてフラッと外に出ていくことが難しい状態になるまで。
引き続き高校生たちからの質問にお応えさせていただきます
Q:本人の力を信じる介護とは具体的にどんなことを指しますか
学校の家庭科授業で2チーム(チームAとチームB)に分かれて「お昼ご飯づくり」をすることになったとします。
チームAを担うA先生は、ごはんづくりをしたことがない学生がいるからと、
予め「なにを食べるか(献立)」を決めておき、その献立に必要な食材や購入先を記載したペーパーを用意し、食材を調理する方法の絵付きレシピまで準備しておくなど、ありとあらゆることをお膳立て(準備)して学生たちに取り組ませることにしました。
チームBを担うB先生は、ありとあらゆることを学生自身が自分たちで行えるようにするために何も準備しないで学生に丸投げしました。
まずは何を食べるかを決めよう。それにはどんな食材が必要か、どこで調達するか、調理はどのようにすればいいか自分たちで考えて取り組むように伝えました。
合わせて、ごはんづくりをしたことがない学生は経験ある学生に教わりながら、チームを構成する学生たちみんなが「チームで取り組めた」と自信を持って言えるように進めてくださいと伝えました。
無事、チームA・チームBとも献立通りのお昼御飯をつくることができ、みんな「美味しい!」を連発する食事を摂ることができました。
その後、僕がA先生とB先生に質問をします。
和田さんからの質問:A先生B先生、それぞれのチームで何種類の献立が学生たちの口から出てきましたか?
A先生:チームAは、献立はあらかじめ自分が決めていましたから、学生たちは「何を食べようか」という話し合いさえしていません。ですから、何種類かの献立を頭に描くことができる学生がいたとしても、それを発揮することなく授業は終わってしまいました。
B先生:チームBは、学生たちが思い思いの「これが食べたい」を出し合ったのでなかなか決まらず最後は多数決で決めました。その代わり、多数からもれた少数者が漬物とか汁ものといった付け合わせの一品を決めるようにして「チームで取り組む」を打ち出したので、多数の献立が飛び交いました。
和田さんからの質問:A先生B先生、それぞれのチームで献立に見合った食材を購入できていましたか?
A先生:チームAは、予め自分が献立に必要な食材と購入先を書いたペーパーを学生に渡しており学生たちはそれに従って購入しましたので、私の言うとおりに購入できていました。また、調理もレシピ通りに進め、その通りに仕上げることもできました。
B先生:チームBでは自分から見て「この献立なら、これを入れた方が良かったのではないか」と思いましたし、学生たちからも「人数に対して食材の量が少なすぎました」とか「調味料の分量が多すぎました」といった感想も聞かれました。
もうおわかりかと思いますが「本人の力を信じる介護か否か」ではなく「力を発揮しやすい環境になっているか否か」なんですね。
この場合、A先生もB先生も学生たちの力を信じているからこそ、この授業を行ったのであって、
「学生たちはお昼ご飯をつくることができる」と信じていなければ「結果、お昼ご飯がつくれず、ご飯にありつけないかもしれない」となり、
先生方にその予測がついているのにその授業を強行したら「お昼ご飯にありつけなくてもよい」と考えたことと同じで、それは「不適切」と非難されてもおかしくないですからね。
先生たちは、学生たちにふたつの環境を体験・見聞することで「介護」を考えてもらいたいと考えて、この授業をされました。
それが、この授業の目的で、僕は人にとって環境がとても大事だと思っているから「利用者・入居者が持てる力や自分の意思を発揮しやすい環境を整えてきた」だけのことなんですが、
介護業界全体は「チームA」が主流で、それを、とても残念に思っています。
Q:介護福祉士になろうと思った理由
僕がこの業界に入った1987年には介護福祉士という資格はありませんでしたし、ホームヘルパー講習会もなく、大学等で学んだ者が「社会福祉主事」をもって特別養護老人ホーム(以下 特養)の生活相談員をしていた程度の業界でした。
ちなみに、特養で勤めだしたときの僕の職名は「寮父(りょうふ)職」でした(面白い職名でしょ)。
老人ホームと形容されていた特養は、圧倒的に「寮母職」の世界で、子育てを終えたお母さんたちが働くところでしたね。
僕が所属する法人の経営陣は「国家資格をつくる」「みんなの社会的地位を引き上げたい」と介護福祉士の国家資格化へ走り回っていました。
そうして1989年に介護福祉士の試験がスタートしますが、僕自身は全く興味がなかったですね。
というのも、僕の仕事で「介護福祉士資格を取得した者でしかできない仕事」は何もなく、しかも介護福祉士を取得した人たちの仕事に何か変化が生まれたわけでもなく「取得しなくてもいいや」ってなっていました。
その特養を退職して上京したときには介護福祉士は花形資格になっていましたし、介護業界に就職するのは難しい時代だったので介護福祉士資格取得者は有利になりつつありました。
上京後に就職活動で受けた法人の採用面接で、新設する施設の施設長になる方から「和田さんは無資格だけど、介護福祉士についてどう思いますか」と聞かれて「業務独占がない国家資格はおかしい」と持論をぶったので「不採用」を覚悟していたのですが、
「その年齢で東京に来てブラブラしていてもしょうがないでしょ。和田さんは面白いから、介護職の採用は終わっているけれど介助員(今でいう介護補助職)なら採用できるから入りなさい」と言っていただき、この仕事に復帰することができました。
その後、その法人でデイサービスの生活相談員(当時は、実質的な事業所のトップマネジャー)として役職をいただいたとき施設長から「和田さん、この法人の中で役職者で無資格は和田さんだけだから、とにかく介護福祉士の試験を受けるだけは受けてもらえないか」と言われ
「恩義ある方からのお願いを持論で突っぱねてる場合じゃない」と思い受けることにしたんです。
今でも試験のことを覚えていますが、残り30分の段階で最後の問題(仮に100)を解き解答用紙にチェックをいれようとしたら解答用紙の方は一つ手前の99「エーッ!」
つまり1問ずつズレていたということですが、何とか滑り込みセーフで、一番喜んでくれたのは施設長で、それが僕も嬉しかったです。
介護福祉士の資格をもっていて「良かった」と思えたのは、それからずっと先のことで、
初めてNHKの番組に出させてもらったときに「何か肩書はありませんか」と聞かれ「法人名や事業所名・役職名が使えないとしたら国家資格の介護福祉士ぐらいかな」って言ったら「それでいきましょう」と言われ「介護福祉士 和田行男」の札をつくってくださり、それが放送されました。
その後に知り合った介護福祉士会の役員をやっていたヤツから「介護福祉士の肩書をつけた者がNHKに出て語っていることに誇りを感じた」って言われたとき初めて「介護福祉士をとって良かった」って素直に思えました。
当時は「介護福祉士」の肩書でテレビに出ている人はいませんでしたから、介護福祉士という資格にとって僕は時代の申し子になったんでしょうね。

めちゃめちゃ旨く感じるんですよね。
あーッ又、行きたくなってきたぁ~






.webp)
