この四月で熊本地震から10年経ちました。
忘れられないあの日
10年前に起きた熊本地震の日は、五島列島新上五島町へ長崎県佐世保市から船で渡る前日の夜で、
佐世保の仲間たちと居酒屋に居て「カンパーイ」と唱和したのと同時にグラグラっと揺れ、携帯電話のアラームが一斉に鳴り響いたことをハッキリ憶えています。
新上五島町へ行くことにしていたのは、毎年恒例となっていた「研修会」と「魚釣り」のためであり、新上五島町の仲間たちに会うことでした。
揺れを報道するテレビ番組を見て「大したことないのではないか」と皆と話していた僕は、翌日一旦は新上五島町へ渡り、予定通りコトを進めていましたが、
一緒に渡った佐世保の仲間には頻繁に電話が入り、入るたびにコトの一大事さが明らかになってきて、仲間は予定を繰り上げて佐世保に戻り熊本支援活動に入りました。
僕は全行程を終えて佐世保に戻り、先に支援活動に入った仲間からの連絡を受けて、そのまま九州に滞在することにして、支援活動に入ることにしました。
新上五島町から船で佐世保港に戻り、そのまま仲間と落ち合う時間まで過ごし、
その間に携帯電話を活用して支援資金集めに奔走し、その日の夜に合流して佐世保市内で支援物品を調達してクルマで熊本入りしました。
まずは、熊本市内の仲間の介護事業所を目指し、そこへ支援物資を渡すことから始め、
さらに被害が出ていた益城町の仲間の事業所を目指し、その後はそこを拠点にして支援活動を繰り広げました。
こういう時って、僕だけかなァ。
知人の顔を見ると「生きてて良かったァ」って思わず声が出てハグしてしまいますが、「元気で良かった」じゃないんですよね。
そのときの様子は、当時のブログでアップさせていただきましたが、全体の印象としては東日本大震災の時と違って、
東日本を経験していることで支援活動が様々に「仕組み化」され、食料品など物資の配給、自衛隊による避難場所への仮設入浴場の設置、DMAT(災害派遣医療チーム)など「支援活動が早いなぁ」という感じでした。
被災直後熊本市内に入った直後は通行できた箇所も、時間が経つほどに交通規制が強まり「渡れない橋」「通れない道」が増えていき、移動に時間を要するようになっていきました。
民間の支援活動も活発でした(写真のトラックは大阪から来られていました)が、
支援物資が全国各地から届いているのに配給する仕組みがなくて倉庫に山積みなっている様子を目にしたり手伝ったり、
ある避難所は食糧配給が遅れているのに別の避難所では余っていて、賞味期限がくると廃棄処分となるというので、それを無駄にしないため「配給する」「ハラに入れる」お手伝いもさせていただきました。

ある介護事業所の方からは「いろんな団体が支援物資を持ってきてくれてありがたいことなんだけど有り余って困っている」「看護師が滞在していると言っているのに複数の医療チームが入ってきて、そっちの対応に時間がとられてもったいない」なんて言う声を耳にし
「コーディネート機能に課題がある」ことを実感することもありました。
いずれにせよ東日本大震災時とは違って「酷く被災している地域が狭かった」こともあってか、支援活動が重層してしまっている印象も持ちました。
JR熊本駅のトイレに行くと大便器の中に流されない便がタワーのように積みあがったままになっていて、排便したところに排便をし、その上に又排便せざるを得ない状況になっている様子も目にしました。
断水していましたので、背に腹は代えられない「ヒトとしての切羽詰まった状況」をよく表した光景でしたね。
僕の知人宅はマンションの上階だったため、ものすごく揺れたようで「自宅内がぐちゃぐちゃになっている」と言うので帰路につく前に掃除に寄らせてもらいましたが、
強い地震の怖さを目の当たりにしました。
固定された備え付けのキッチンが外れて動いていることに驚きましたし、家具やテレビなど全てのモノがぶっ飛び、部屋中にモノが散乱していました。
ベビーベッド内に時計がありガラスの破片が散らばっていましたが、ベッドの上位に掛けてあった時計がベッドに落下したそうです。
知人は「たまたま、チビは実家に帰っていたから助かったけど、ここに寝ていたらどうなっていたかと思うと恐ろしくなる」と言っていました。
これを読んでくださっている皆さんが寝ている部屋は大丈夫ですか?
僕はこの光景を見てから寝る場所の高い位置に、転落・落下したらケガする・致命傷を負うようなモノを置かないようにするようになりました。
又、東日本大震災で「電気がない」ことの経験から必ず懐中電灯を携行するようになっていましたが、
熊本地震以降、部屋のあちこちに懐中電灯を備えましたし、ホテルに泊まる際は必ず非常口を確認するようになりました。
又、知人夫妻は仕事柄自宅に本がたくさんあり書斎部屋があったほどで、
部屋の中側に扉を開けるつくりになっていたため散らばった本の山で扉を開けることができず、それを一冊ずつ扉のすき間から抜き取って何とか部屋に入ることができましたが、
部屋の中に入り、崩れて山積みになった本の上から部屋を眺めて「地震では本で死ぬこともあり得るし本が邪魔して助けられないこともある」ことを思い知りましたね。
それを見て以降、重くて分厚い本は凶器になり得ると感じたので、
分厚い本はできるだけ低い位置に置くようになりましたし、本棚の本の下に滑り止めマットを敷くようにもなりました。
本の上に乗っかって本の片付けを進めていくと、いよいよ下の方の本が見えてきたのですが、何と地震で浮き上がったであろう本棚の下敷きになっていた本があり、
それをよーく見ると「見たことがある表紙」で、
これが何と僕の著書「ダメ出し認知症ケア(中央法規出版社:小宮恵美さん共著)」じゃないですか。
「なんでやねん」って思わず地震に怒鳴りましたわ(写真)ハハハ

時間とともに薄れる意識と行動
もともとクルマで長距離移動することが好きな僕ですが、
新型コロナウイルス感染症蔓延以降、自宅名古屋から仕事の本拠地東京までクルマで月に2~3往復する生活になりました。
首都圏直下型地震、南海トラフ地震、富士山噴火といった「そう遠くない時期に起こる」と言われている災害が高速道路を走っている最中に襲ってくることがアタマをよぎり、
クルマの中に非常電源や懐中電灯、飲食品や食器、カセットコンロ類、寝袋、衣類や防寒具、スコップやのこぎりなど携行災害用品を揃えて「車中生活や移動生活」に備えていましたが、
これも又、意識が薄れいつの間にか「ジャマだな」ということで降ろしてしまっています。
震災を振り返る報道番組がテレビから流れてきて、これらを見ると改めて「備え」を意識し直そうとするのですが、
時間の流れと共に薄まっている自分をも同時に感じ、改めて気を引き締め直している僕です。
手遅れにならないうちにGW中に装備し直そうかな。
忘れてはならないグループホームの火災
忘れてはならないことは自然災害だけでなく人災もあります。
グループホームで火災が起こり、入居者が亡くなるという悲惨な事態が起こったことを決して忘れてはなりません。
最初は長崎県で起こりましたが、この時は長崎県の仲間から「目の前で、グループホームが燃えている」との一報を受け、数年後に影も形もなくなってしまった跡地を訪問しました。
その後、北海道で火災が起きてしまい直後に訪ね「焼け落ちたグループホーム」を見て、火災の恐ろしさや火災防止を各地で伝えてきました。
長崎の火災因子は「煙草」、北海道の火災は「洗濯物とストーブ」と記憶していますが、
火災事故は自然災害と違って防ぎようがあるにもかかわらず、これも時間の経過とともに意識が薄れているとしたら大変なことです。
良くあることのひとつに、こうしたことが起こった直後は気を付けて片づけるのに、いつの間にかガスコンロの周りに燃えるものを陳列してしまうということがあります。
自宅でもそうですが、つい燃えるものでも置いてしまうんですよね。
ストーブの近くで衣類等を乾かすこともそうです。危ないあぶない。
忘れては思い出し
入居者の生活の質や継続性が大事だからと「好きな煙草がいつでも吸えるようにライターやマッチを入居者自身が好きに使えるようにしている」という話をいまだに聞くことがありますが、
僕から言わせれば支援者の怠慢=無策ですね。
何かが起これば気を引き締め・策を講じますが、時間の経過とともに意識も実践も薄まっていくのは世の常・人の常で、それを責めてもしょうがなく、
薄まることを前提に、こうした機会を通じて「再び引き締め直して再び実行」を繰り返していくしかない!
なかなか積み上がらないですね。


2018年、北海道でソフトクリームのようにねじれた雲を見ましたが、そのあと北海道胆振東部地震が発生しました。
写真は、神奈川県~静岡県で見た「同じ雲が変形したもの」で、最初の写真は神奈川県内でパチリ、次の写真は静岡県内で撮りましたが、この日、長野県で強い地震が起きました。







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