ステキなお返しができる「ステキ」
グループホームの入居者たちが日ごろの会話の中で「温泉に行きたいわ」と言われているのを聞いていて、その願いを実現するために温泉に行って帰ってきた直後にトメさん(仮名)が、こう言われました。
「わたし、確かバスに乗ってどこかに行ったと思うけど、どこに行ったのかしら」
すると、一緒に温泉に行かれた同居人のハルさん(仮名)がそれを聞いて
「あんた、それ夢よ!」
ステキなお返しをされました。
グループホーム入居者の皆さんが職員のチカラを借りてお昼の献立を決め、何人かで連れだって買物に出かけたときヨネさん(仮名)が、こう言われました。
「あらぁ、おばあさんたちだけなの」
「そうですよ、おばあさんのオンパレードです」
その会話を毎日繰り返していたある日、ヨネさんから
「あら、今日はおばあさんのオンパレードなの」
お株を奪われてしまいました。
そのヨネさん、起床を促しに行くと「お腹が痛い」と言って起きようとされません。
日頃、ヨネさんと話をしていると
「子供の頃、学校に行きたくなかったときお腹が痛いと言って仮病をつかっていたわ」
と告白されていますので、きっと仮病なんでしょう。
だから「ヨネさん、仮病でしょ」って言うと、
自ら「よく、仮病を使っていた」と告白しておきながら尚、「お腹が痛いんです」と言い張れるところがステキじゃないですか。
ある日、ヨネさんが買物に行かれるときに「行ってらっしゃい」と言葉をかけると「あら、あなた行かないの」って返ってきたので「いやぁ、お腹が痛くて」って返したら「あら、仮病ね」ってサラッと返されました。
ヨネさんの方が何枚も上手でした。
「今」をつないで「今」を大事にする
グループホームに入居されて1年半くらい経ったある日のことです。
皆さんで今日のお昼ごはんの献立を決める前にキクさん(仮名)が一人でお出かけされたので、コソッと後方からついていきました。
この1年半、毎日のように同じコースを歩いて同じスーパーで買物できるように支援してきましたが、その成果あって、すっかり「通い慣れた道」になっているようで何ら戸惑うことなく自信たっぷりに歩いているように見えました。
「どこに、行って、何をされるのかな」
ワクワクしながら付いていくと、いつも利用しているスーパーに入られました。
僕も入って遠目から見ているとパン売り場を探し当て、そこでクリームパンとジャムパンを手に取りました。
財布を持ってきていたようで、しっかりとレジでお金を払うこともでき、ものすごく嬉しくなりました。
認知症の状態にあっても「自分のことが自分でできるように支援する」ことに取り組んでいましたが、それを「痴呆症(当時)の人に献立を決めさせ買物に行かせるなんて、和田のやっていることは虐待だ!」なんて言われていた頃だけにひとしおでした。
その時々の「今」を大事に積み上げても確実に「過去」になってはいきますが、例え「出来事」は過去になったとしても積み上げてきた成果(敢えて身体にしみこむことと表現しておきます)である「過去」が「今」に発揮されたということであり、
僕の目線で言わせてもらえれば、日常生活行為を自分でできるように支援してきた成果が出ているってことで、こうしてコソッとついて行くとよくわかります。
キクさんは、グループホームまでの帰路も自信たっぷりに歩かれ、何事もなく辿り着くことができましたが、他者がいるリビングには行かず、そのまま階段をあがって自室に戻られました。
これまたコソッと見に行くと、扉を閉めることもなく部屋の隅っこに座って、買ってきたパンを食べられていました。
お腹が空いていたのか、大好きなパンが食べたかったのかはわかりませんが、食べ終わった頃合いを見計らってリビングに出てきてもらい「今日のお昼は何にしましょうか」と献立の話し合いを始めました。
「Aさんは◯がいいですか△がいいですか□がいいですか」
最後にキクさんにも「キクさんは、何が食べたいですか」と聞くと「△がいいです」と言われましたので、敢えてひとこと添えてみました。
「キクさん、さきほど何か食べていらっしゃいませんでしたか」
「何にも食べていません」
「お腹空いていますか」
「何にも食べてないので空いていますよ。だってお昼でしょ」
「今」がすべて
食べたことは記憶にないのですから「食べていない」ということであり、食べていないから想い起せないのは当たり前のことで、今「お腹が空いている」と言うキクさんの言葉が全てです。
つまり、僕らが「過去」を以って思考するのは無駄で、今「食べたい」が行動の源であり、それにそって支援することが大事であることは言うまでもないことですが、
脳は病気によって「食べたことを過去に起き去りにします」が、お腹の方はある程度の時間「食べたことを途切らすことなく今に引き継いでいく進行形」ですから、
できあがった料理を目の前にして、それを口に運んだとしても、食べきれるかどうかは「ハラ次第」ということになります。
だから、そこまで描いて支援することが必要なんですが、逆にそこまで描くと支援する側は「きっと、食べきれないんじゃないか」と食べたことを憶えているだけに「過去」をひきずってしまい「少量にしておこう」的発想になりがちです。
でも、今、本人が食べたい分だけを又、他者と相違ない分量を本人の目(脳)に映らせてあげることも支援策だということを忘れないようにしないといけません。
職員さんが「さっきあれだけ食べたから、きっと、食べきれないんじゃない」と先回りしてしまった結果「私だけ量が少ない」と訴えにきた入居者がいましたもんね。
ズレを生まないために毎回皆さんに給与を渡す
先日開催した注文をまちがえる料理店では、1日3回転(1時間半のお客様入れ替え方式)営業しましたが、認知症の状態にある方の中には、1回目だけ就労して帰る方もいれば1回目2回目を連続就労して帰る方もいました。
就労に対する対価として当然のこととして「給与を支給」させていただきましたが、連続して就労していただいた方には「1・2回分まとめて2回目終了時に手渡す」のではなく、1回ずつ支給することにしました。
これも「今、他者と一緒に受け取る」ことを大事にしたということで「あとでまとめて支給しますね」は瞬間的に納得されたとしても、周りの人が給与袋をもって喜ばれている中で「自分はもらえていない」とズレを生じかねず、それを予測して「ときどきの今を大事にした」ということです。
こうしたことを侮ってはならず、こうした「ズレ」を生じさせると、僕らが思いもしない言動につながってしまいかねず、そこまで想定したうえで行動することが必要です。
又、経験的にですが、こうしたときの言動も、本人の側からみれば「おっしゃる通り、その通りだな」と思えることだらけで、そのことを描くからこそ配慮するということです。
この場合で言えば、毎回給与を受け取って悪い気を抱く方はいないでしょうが「もらえない」となると不快感を抱かれるのは当たり前のことですからね。
不謹慎ながら僕は、脳が病気によって「過去からつなげられなくなる・未来とつなげられなくなる」状態になるというのは「今を生きる」という極めてシンプルな状態になれるということであり
「過去や未来とつながってしまう一般的な脳の状態よりも豊かなことかもしれない」と思っていますが、
その分だけ「過去や未来とつながっていたい」と願ってもつながり切れない状態で且つ、自分の意思に基づいていない状態だということを思えば、表現しきれない大変な状態だとも思っています。
追伸
9月20・21日の両日開催した「注文をまちがえる料理店」へのお力添えをいただき、ありがとうございました。
おかげさまで、事故なく終えることができましたし物語をたくさん産みだすことができました。
この場をお借りしてお礼を申し上げます。
21日は、2017年に初めて取り組んで以降、初の事ですが、私たちの呼びかけに応えていただいた全国34か所の方々と同日開催させていただくことができました。
きっと、全国各地で物語を産み出していることでしょう。
改めてご紹介させていただけるのではないかと思っています。
本当に、ありがとうございました。
