大勢の前で歌えるようになれた僕
超がつくほど緊張するタイプの僕は、高校2年生まで人前で自己紹介することさえ大変なことで、学校の授業以外で今のように大勢の前で歌うことができたのは20歳前後だったと記憶しています。
京都向日町競輪場の駐車場で催しがあり参加しました。
そこで「ステージで歌いたい人」を募っていたので応募したところ引っかかり、
当時大ヒットしていた田中星児さんの「ビューティフルサンデー」という曲(1972年大ヒットしたダニエルブーンのカバーバージョン)を歌いました。
真っ青な空の下、人がいっぱいいる中、人々を見下げる高いステージ上から初めて一人で歌わせてもらいましたが、ものすごく気持ちよかったことを憶えています(この時、覚醒したかも)。
音源は、当時すでにあった8トラックテープ使用のカラオケだったように思います。
18歳で国鉄に入ってから看護師さんや保母さんたちと交流する機会を得、高校時代にギターをチョイかじりしていたことから伴奏することを頼まれるようになり、皆さんと一緒に歌を歌うことが増えていきました。
15歳から「終わりとは、死とは」を考え17歳の時に「人はみんな死ぬ」っていうことに気づき、それ以降、それまでの自分を脱皮したかのようにはじけました。
緊張することは失せませんでしたが、この頃になると良いも悪いも怖いもん無しの心境でしたね。
仕掛け人タイプで出たがりの「わが・まま」
高校時代は、サイモン&ガーファンクルに魅せられた仲良し同級生の背中を押して文化祭やラジオ番組に出演させ、就職してからもステージを用意するなど仕掛けていましたから、そっちはかなり好きなのかもしれません。
1974年国鉄入職、1987年まで13年間在籍しましたが、職場で先輩・後輩の枠組みを超えてワイワイ・ガヤガヤ愉しむためにバンドを組みました。
ちょうど、職場にフォークギターが上手な後輩が入ってきたのでそいつを軸に、楽器を練習しがてら楽曲演奏を披露する新米バンドでしたが、
ナッパ服という国鉄の作業着をユニフォームにして歌わせてもらっていました。
このバンドでの僕は「歌い手」でしたが「ちょいと出る程度」の参画で、
どっちかというと「人前結婚式・大人数の催しそのものの企画」など「いろいろな人たちの出番を創ることを仕掛ける側(主催者側)」に居ることが、やっぱり多かったように思います。
お馴染み「酒と泪と男と女」などヒット曲多数の河島英五さん(故人)を招いて催しをやり、
一緒にステージで歌わせてもらった(といってもコーラス程度)こともありました。
でも、こうして改めて自分自身を振り返ると、11歳小学5年生の頃に大流行した「グループサウンズ」に魅せられ、自宅にテレビがなかったので銭湯で歌番組にくぎ付けになって楽曲演奏を見聞きし、
ギターを手にすることは叶わない経済状況の家庭でしたから「箒(ほうき)やはたき」を首からぶら下げて今でいう「エアーギター状態」にして近所の子と一緒にアパートの廊下で大声で歌っていましたから、根っこは歌うことが好きだったんでしょう。
介護業界に入ってからも年下の先輩、同僚、後輩とバンド練習して歌ってましたもんね。
今、カラオケで歌う自分、カッパーズの一員としてライブハウスで歌う自分を思うと、実は子供の頃から人前で歌うことも望んでいたのかもしれないと思うようになってきました。
ただ、極度の緊張から自分を解放することができず叶えることができなかっただけだったのかもしれないなぁ~と、これを書いていて、そんな気がしてきました。
しかも、1985年30歳頃は後輩の誘いもあって「漫才」で時事ネタを披露していましたから、歌うことだけではなく街頭演説したり講演する自分を含めて、人前では震え声になる僕ですが、そのくせ実は人前で声を出すことが好きなんじゃないかとさえ思ってきました。
認知症の状態にある人との漫才コンビ
1987年4月32歳の時に介護業界に入職させていただき、その年だったか翌年だったかは不明瞭ですが、9月の敬老の日に施設の催しがあり、
そこで認知症の状態にある女性入居者と一緒に舞台に立って漫才を披露したことがありました。
もちろん、台本なしのぶっつけ本番で、お相手の女性入居者がボケで僕が突っ込みでしたが、とにかく「迷コンビぶり発揮」で拍手喝采でした。
余談ですが、今振り返って思うのは、僕が入職した法人はスゴかったなぁ。
僕がこの企画を出したときも終わった後も「入居者を笑いものにして」とは誰からも言われませんでしたから。
きっと、僕はこの当時から「入居者にくっついた認知症を笑い飛ばしていた」んでしょうが、
誰も入居者をバカにしているとか笑いものにしていると言わなかったのは、一にも二にも主役は女性入居者であり結果、舞台に立った女性入居者の姿がステキだったからでしょうか。
そういうことに厳格な法人でしたから、なおさら思います。
トーク・ライブ
2003年「大逆転の痴呆ケア(中央法規出版社 廃刊)」という著書を出版させてもらい、その数年後に渋谷区にあった100名ほどが入るホールをお借りして「トーク・ライブ」と称した催しを結構な回数開催させていただきました。
僕が言う「ライブ」というのは「生」という本来の意味合いで使っているわけではなく「台本なし・打合せなしのぶっつけ本番」的な意味合いで使わせてもらっていますが、僕は何が出てくるかわからない・何が起こるかわからない「ライブ」が大好きなんです。
この時の企画は「第一部でゲストが話す(トーク)」そして「第二部で僕がゲストと打合せなしぶっつけ本番生談義する(ライブ)」という構成で、ゲストが話す内容もその場で聞くまでわからなかったので、めちゃくちゃワクワクドキドキでしたよ。
ゲストは、医師を含む医療職・介護職・政治家・大学教授・研究者・その他もろもろ(良く憶えていません)で、テレビに良く出ていた方も含めてジャンルを超えた多彩なメンバーでしたが、「この方と話してみたい」的な感じで人選させていただいていました。
実は、この時にも認知症の状態にある本人(東京在住)であるトメさん(仮名)とその旦那さんを交えて対談させていただきました。
当時は、認知症の状態にある人たちがやっとメディアで紹介され自分の言葉で語り出すようになった頃だったと思います。
舞台上で、あれこれやりとりしていたのですが、いきなりトメさんが僕をじっと見つめ「あなた、嫌い、下品だから」とつぶやかれたんです。
これに会場は大爆笑となり、僕も「痛いところ突かれたわ、ほんまや」って感じで大笑いしたことを憶えていますが、
今とは比べ物にならないほど認知症への偏見や誤解が強い時代でしたから、大勢の面前で「オープンに笑い合える」ってことにステキさを感じましたし、
僕がやるトーク・ライブの意味を噛みしめることができた瞬間でもありましたね。
トーク&ミュージック・ライブ
ある町で所属法人の枠組みを超えた若者たちが主催する研修会に招かれました。
お決まりの会議室での研修会が終わり、懇親会が終わり、主催者が宿泊施設まで送ってくれましたので
「あんな、ホテルにチェックインした後研修会まで時間がなく、フロントに荷物を預けてるんやけどカラオケに連れてって。この辺りにあるかい?」って投げると
「市内に戻ればあります」と投げ返してきたので「じゃぁ、チェックアウトしてくるわ、行こう!」ということで、翌朝の始発電車まで呑んで歌っての「どんちゃか・ひと夜」を過ごしました。
その時、主催者に「あんな、若い連中が箱の中に閉じこもって人の話聞いてても、つまんないやろな。この町にライブハウスはないのか?」って投げかけると
「あります」というので、「じゃ、来年、そこでトークとミュージックのトーク&ライブをやろう」と返したら、そこは若者たちのすごいところで、ホントに開催してくれました。
僕が紹介された2012年「NHK ~プロフェッショナル 仕事の流儀~」の番組の中でもこのトーク&ライブの模様がちょこっと映されていますが、
この取り組みでは地元のバンドを軸に、僕の高校時代や国鉄時代の連中を呼ばせてもらっての企画構成で「第一部ミュージック、第二部トーク、第三部ミュージック」としていました。
この取り組みでは、ライブハウスという独特の場で且つ、少々お酒も入りますから実に砕けた率直な話ができるし・してくれるので僕的には「いい感じ」で、
二年目には「いつか地元の連中だけで開催し続けてくれるといいのになぁ」という思いを抱いて参加していましたね。
でも、こうした「それまでにない企画・催し」に理解を得ることが難しい時代でもありました。
本当のことを確かめてはいませんが「酒を飲みながら研修だなんて」「ライブハウスで研修会?お遊びでしょ」といったようなことを言われる方もいたようです(残念なことに、聞こえてくる話はありますが、僕に直接は言ってこないんですよね)。
この町でのトーク&ライブは、プロフェッショナルで紹介されたあと四年目を迎えることなく終了となりましたが、
この「トーク&ライブ」がネット上で紹介され、それを見た北海道の介護事業者Aさん(仮名)が地元の業界仲間Bさんに「私の町でもやりたい」と声を上げました。
するとBさんがすかさず「バンドなら用意できます」と応え、
2013年とんとん拍子で北海道初の「トーク&(ミュージック)ライブ」を開催することになり、僕を招いてくれました。
これがブログでも紹介させていただいたことのある「カッパーズ」というバンドの始まりで、コロナ禍無活動四年間を耐えしのぎ、活動年数以上の回数を開催してきました。
カッパーズの基になったのは「介護の専門学校時代に組んでいたバンド仲間3人」で、卒業して以降10年間くらい音楽活動をしていなかったようですが、Aさんの「やりたい」で火が付いて再結集となり、
第一回目のトーク&ライブ終了後突然Aさんが「来年、わたし、ベースやる!」と言い出して第二回目が決まり、その後「カッパーズ」というバンドへと進化し13年目を迎えています。
ふと自問
先月札幌市で「トーク&ライブ」を開催させていただきました。
来てくださった皆さん、準備してくださった皆さん、本当にありがとうございました。
このとき最終盤自分の出番前に舞台袖でカッパーズの演奏を聞き、舞台に上がってきてくれた人たちを見ていて、ふと思いました。
具体的なことが書けなくて申し訳ないのですが、舞台上演奏するカッパーズもカッパーズのメンバーに声をかけられ客席から舞台に上がってくる人たちもみんな地元の人。
しかもカッパーズに介護業界以外の業種に勤める若いメンバーが加わったことでお客さんも介護以外の仕事をしている人たちが来てくださり且つ、
皆さんの年齢が若いため「異業種・異年齢交わりの場」として化学反応できる可能性を感じたし、この雰囲気に未来を感じて「これや!コレ」とメチャクチャ嬉しくなり、つい目頭を押さえました。
でも次の瞬間、脳内に潜んでいた別の和田さんから「あれ、和田よ、お前が描く原風景を忘れてたんじゃないか」と自問がきたんです。
長々と前置きが長くなりましたが、僕がそもそも「トーク&ライブ」に描いた光景は、「地元」「交わり」「ぶっ壊し」だったはずなのに、
いつの間にか「自分」「自分が交わる」「形ありき・継続ありき」になっていることを別の和田さんに叩きつけられ、
あの日以降、このことを自問する毎日となってしまいました。
今回、これではない原稿を書いていて、それをアップする予定でいましたが、どうしてもこのことを次のトーク&ライブ前のこのタイミングで文字に起こしたくなり、ついついダラダラと書いてしまいました。
読者の皆さん、ごめんなさい。
次回カッパーズ「トーク&ライブ」は、12月6日(土)18時から岩見沢市「MUSIC PLACE(M.Pホール):無料 岩見沢市大和3条8丁目2-1」です。
良かったら、来てください。
そんなこんなマニアックな「自問」に触れるやもしれません。
この自問の先にどんなことが起こるのか、僕も楽しみにしておきます。







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