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あらすじ
文筆家の高山治と妻のヨシ子は、穏やかな晩年を過ごしていくはずだった。
ところが、ヨシ子に認知症の症状が現れ始める。
少しずつ自分を見失っていく妻を、治は献身的に支え続けるが、その夫自身も癌で入院することになってしまう。
病院と介護施設に分かれて暮らすことになった二人。
それでも変わらない愛と、共に過ごした日々への感謝を胸に、夫婦は穏やかに人生の終わりを迎えようとする。
老いと病を見つめながら、最期まで相手を想い続ける夫婦の深い愛の物語。
特徴・見どころ
もし、人生を長く連れ添った夫婦が、その最期のときに、二つの大きな病に同時に直面したとしたら。
本作『そうかもしれない』は、妻が「認知症」に、そして夫が「癌」に、という極めて過酷な現実に直面した老夫婦の姿を、静かに、深く、そして圧倒的なリアリティで描いた感動作です。
この物語は、文筆家・耕治人による原作を映画化したものであり、単なる闘病記や悲劇の物語ではありません。
老いと病、そして死という、誰もがいつかは直面する避けられないテーマに、二人がどのように向き合い、互いを支え、人生の終焉を迎えようとするのか。
そこには、認知症患者と家族の不安に寄り添いながらも、絶望だけではない、静謐(せいひつ)で美しい愛の形が描かれています。
名優が体現する、老いと病の「日常」
本作のリアリティと深い感動を支えているのは、老夫婦を演じた二人の名優、雪村いづみさんと、故・三代目 桂春團治さんです。
雪村さんが演じる妻は、認知症によって、記憶が徐々に失われていきます。
昨日できたことができなくなり、大切な思い出や、夫の顔さえも曖昧になっていく。
その不安と混乱を、過度な演出ではなく、日常のふとした仕草や表情で繊細に表現しています。
一方、夫を演じるのは、落語家の桂春團治さん。
彼は、自らも癌で余命いくばくもないという現実を抱えています。
自分の命が尽きようとしている中で、目の前で記憶を失っていく妻を、どう支えればいいのか。
迫りくる「死」の影と、妻への変わらぬ愛情。
この二つの狭間で揺れ動く夫の姿を、静かなたたずまいの中に、深い覚悟と愛情を込めて演じきっています。
「忘れる妻」と「見送る夫」の、究極の愛
本作が観る者の心を打つのは、この二重の「喪失」が迫る状況下で、二人が示す愛の形です。
妻は、認知症によって「忘れていく」存在です。
夫は、癌によって、妻を残して「先に逝かなければならない」存在です。
普通であれば、絶望に打ちひしがれてもおかしくない状況。
しかし、二人は、残されたわずかな時間を、ただ静かに、互いを慈しむように過ごします。
記憶が失われていっても、夫が妻を思う気持ち。
余命がわずかであっても、妻が夫に寄せる信頼。
言葉や記憶という「形」を超えたところにある、魂と魂の結びつき。
変わらぬ愛情で結ばれている二人の姿は、愛とは何か、夫婦とは何か、という根源的な問いを私たちに投げかけます。
認知症の最期と、人生の終焉を受け入れること
本作は、病や死と「闘う」物語ではありません。
むしろ、それを「受け入れる」物語です。
認知症の最期、そして自らの人生の終焉。
その避けられない現実を、二人は悲観するのでも、嘆くのでもなく、あるがままに受け入れ、穏やかにその時を待とうとします。
原作のタイトルでもある「そうかもしれない」という言葉。
これは、老いや病、そして死という、人間の力ではどうにもならない運命に対する、一つの「受容」の形を示しているかのようです。
認知症患者と家族の不安や苦悩を、決して美化することなく描きながら、人生の最期に訪れる静謐な時間と、そこにある夫婦の絆の美しさを描いた、深く心に残る作品です。









