最近「認知症の人」という言い方を改めようという動きがあるようで、ある方から「和田さん、認知症の人という言い方を止めて認知症のある人にしようという話を聞いたんですが、どうもしっくりこなくて。和田さんはどう思いますか」というメールを受け取りました。
僕がずっと「認知症の人なんていう人はいない」と吠えてきていたので僕に聞いてきたのだと思いますが、僕の中ではかように整理しています。
そもそもの「認知症とは」が大事
この話の入口で大事なことは「認知症とは」で、国の法律介護保険法から引っ張ってくると「アルツハイマー病その他の神経変性疾患、脳血管疾患その他の疾患により、日常生活に支障が生じる程度にまで認知機能が低下した状態として政令で定める状態をいう」となります。
つまり認知症は、それそのものが病気ではなく「病気等によって起こる状態」だと謳っているのですが、いろいろなところで専門職が「認知症は病気」「認知症という病気は」と語り・書くもんですから、市民の中には「病気だと思っている人が多い」と実感的に思っています。
つまり、認知症について語ったり書いたりする専門職が「認知症は病気」「認知症という病気」を専門職や市民に伝え、またその先でその方々が伝え広まった結果とも言えます。
これは認知症を「認知」と表現する専門職がいるがゆえに、市民の中に「認知がある」「認知が進んだ」と言われる方が結構いるのと同じだと思っています。
風を吹かせられる専門職
市民に影響力を与えやすい専門職が「認知症の人」と言ってしまうと、認知症を病気だと思っている人にとっては「病気の人」っていうことになり、それを「認知症のある人」に変えたとしても結果的には「病気のある人」っていうことになってしまいますから「認知症は病気という正しくない捉え方」の歯止めにはなりません。
僕らは、認知症の状態にある人への直接支援を業としている専門職ですが、認知症の状態にある方々が暮らしやすい環境づくりの専門職でもあり、環境の最たるものが「社会」とも言えます。
つまり僕らは、社会そのものが認知症の状態にある方々にとって暮らしやすい環境を整えていく専門職だということでもあり、専門職である僕らには社会の中にある誤解や偏見を正していく使命があるといっても過言ではありません。
認知症は介護保険制度施行当時「痴呆症」と呼称されていましたが、当時「痴呆症」への誤解や偏見は今とは比べ物にならないほどでした。
今では目にすることはありませんが、僕が知る限りにおいてもグループホームを建設しようとすると建設反対のノボリや横断幕が掲げられた地域が数か所ありました。
建設を計画した事業者や行政から「地域住民に建設の説明会を開催するのですが反対されているのでグループホームの説明をして欲しい」と依頼を受けて建設に向けた説明会に参加させてもらった時には、住民から「大声で叫びまくる」「モノを持っていかれる」「地価が下がる」「おかしな連中に来られたから困る」「山の中の方が環境としていいんじゃないか」など、誤解と偏見にみちた反対意見がどっと寄せられました。
僕は、認知症の状態になっても人として生きていけるように支援するには地域住民の中にあるであろう誤解や偏見を払拭することが不可欠であり、そのためには認知症の状態にある人自身が行動すること・それを実現できるように支援することが必要だと考えて1990年代半ばからデイサービスの活動を通して実践していましたが、
介護保険制度が施行される1年前1999年の春から老人福祉法で制度化された「痴呆対応型共同生活援助事業:いわゆるグループホーム」の運営に携わるようになり全面的に展開してきました。
こうした思考は、ブログ等で折に触れて発信しているように、1980年代に障がいを持つ人たちの列車の旅の運動の中で実体験・体感したことによって、そう思えていたのですが、
それもあってグループホーム入居者が毎日のように地域社会へ買物や散歩に出かけられるように支援し、外食にも出かけ、町内活動・町内行事には必ず参加できるように支援にすることで風を吹かせてきたということです。
地域住民の変化
グループホームの運営をスタートさせた当初、地域の商店へ買物に行くと商店主たちから「おにいちゃん、この人たちはどういうひとたちなんだい」と聞かれ「痴呆症の状態にある方々ですよ」と伝えると「そうなんだ。ふーん」って感じで遠巻きに見られていましたが、
一年後には「お兄ちゃん、俺もこんな風に生きていけるんだったら、痴呆症になってもいいと思えてきたよ」と言ってもらえるようになりましたし、他のお客さんたちからも声をかけてもらえるようになりました。
又、入居者が食べに行ったり出前をとったりしていた寿司屋のマスターからは「初めて話すけど、母親が痴呆症の診断を受けていてね、毎日のように“何度も同じことを聞くな”とか“さっきも言っただろう”って怒ってばかりいたけど、和田さんたちとかかわるようになって、皆さんが入居者の人たちにかかわるのを見聞きして間違っていたな、母親に悪いことをしてたなって思え、今は受け止めるようになれたよ」って言ってもらえました。
状態であることを伝えたい
この仕事に就いた38年前「この業界で、人による人への差別や偏見に対して妙に反応する僕にも何かできることがあるかもしれないと思えた瞬間」があったのですが、それをずっと懐に入れて取り組んできた僕の現時点での到達点は「認知症は病気ではなく状態なんだ」ということを強調する意味で「認知症という状態にある人」と語り・書くようにしています。
かつては「婆さん」と表現していた僕ですが・・・
人前で話をさせていただくようになって「痴呆の人」や「痴呆性高齢者」という言い方に疑問をもち「痴呆という状態にある人」というのは話しにくく、事前に意味をお伝えしたうえで「認知症の状態にある人の総称として婆さん」と言っていましたし著書にもそのように書きましたし、NHKプロフェッショナルに出演させていただいた時は放送の中で「婆さん解放運動」とまで言っていましたが、それはそれで大反感を喰らいました。
でも、ある講演会で講演後に控室を訪ねて来られた方が「和田さん、あなたね、私の大事な旦那様のことを婆さんだなんてひどいじゃないですか。公演が始まった当初は怒りで煮えくり返っていつ出ようかしらと思って聞いていましたが、最後まであなたの話を聞いて、あなたが社会に対して何が言いたいのかが良くわかりました。婆さんと言ってもらって結構です。頑張ってね」と言ってくださいました。
その方の旦那様は50歳代(今でいう若年性認知症の状態にある方)でしたからね。そりゃそうですよね。お怒りになる方が普通でしょう。
あちこちで吠えまくってきた時間の長さと共に「和田さん=婆さんと言うのはしょうがない」と思っていただけるようになりましたが、もう婆さんなんて吠える必要がない時代になってきたからでしょうか、いつの間にか「婆さん」と表現しなくなってきました。それでも熱くなるとポロリを出てきますがね。
状態であることを身近なところで浸透させることができる専門職
外国でも日本で言う「認知症の人」という言い方を止めようという動きがあるようですが、昨年1月に施行された生まれたての法律「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」の中で「認知症の人」と謳っている日本はどこに着地していくんでしょうかね。
それよりも何よりも「認知症は病気」「認知症という病気」という説明言葉を止めてもらいたいもんですし、認知症の研修が義務付けられている介護保険事業所での研修時には「介護保険法に謳う認知症とは」を繰り返し読み合わせてもらいたいし、市民向けの講演等の時には「介護保険法に謳う認知症とは」を市民に配布して「状態なんだ」ということを多くの人たちに浸透させて欲しいと願っています。
介護保険制度がスタートして認知症の研修会履修が必須要件になり認知症介護指導者研修という研修まで開催されるようになり、公費公的研修会が全国各地で開催されるようになり、たくさんの専門職たちが受講するようになって「台風級の大きな風になること」を期待していたのですが、まだ発達しきれていないように思います。
介護職の専門性を見いだせる「状態という捉え方」
又、どういう言葉にするかより重要だと思っているのは「状態」という捉え方にこそ、介護職の専門性を見出せるからです。
これは、これからのブログ記事の中で実例を出しながらお伝えできればと思っていますが、「病気」という捉え方だと介護職が踏み込める隙間はほぼありませんが「状態」だからこそ介護職のチカラを発揮できる余地はたくさんあるし、全国各地ですばらしい実践を積んでいることを見聞きしてきましたし、今このときも奮闘している介護職はたくさんいることでしょう。
認知症を引き起こす病気に打てる手立てはなくても、医師による専門的な診断や薬物など医療的アプローチと僕らの「状態」への支援と、そして社会環境によってこそ、人としての生活をあきらめさせない国になっていけると思っていますが、その環境を整えるためにも「認知症の状態にある人」という言い方が必要なのではないかと考えています。いかがでしょうか。
追伸
健達ねっとでも連載するようになったタイの老人ホーム代表者として赴任する仲間の壮行会を開催した時、ヤツが「ミャンマーに連れ去られないように注意します」と言ったので「ん、連れ去られるの?人さらいがいるの」って聞きなおすと「悪い人たちが人を連れ去るんですよ」と言うのを「へェ~」程度に聞いていました。
数日後、どのチャンネルを回しても報道されるほどの大ニュースになった悪い人たちのミャンマーのアジトの映像に「これやったんかぁ」と思いましたが、僕の中のアジト=暗いイメージとはまるで真逆、リゾート施設、リゾート別荘地のようで驚きました。
それなりにでかいヤツなので悪い人たちも連れ去ろうとは思わないかもしれませんが、連れ去られても取り返しには行けませんからね。くれぐれも気を付けてくださいよ!

芝がたっているかのように見えますが「霜」
写真では表現しきれていませんが太陽光を浴びてキラキラ
やっと北の地以外は「春本番」を迎えますかね


コメント
コメント一覧 (28件)
・痴呆 → 認知症へと呼称が変更になった経緯を諸先輩方から聞いてきました。この仕事に従事していない方からすればどんな呼び名であろうが構わない、なのかもしれませんが、この仕事に従事し給与をもらい生きている自分たちからすると、「たかが呼び名」ではなく「されど呼び名」でなければいけないと思っています(ホテルに勤めている人は「お客様」と呼ぶかもしれませんが、ホテル業界に携わっていない自分たちは「お客さん」と呼ぶ事があるでしょうし)
・どの仕事にも「従事する者にしかわからないこだわり」はあります。ただそのこだわりの内容が「従事する者のみ」で留まっていて良いものなのか、「より多くの国民に知っていただくべきものなのか」で考えた時に、認知症の状態にある人と呼ぶこだわりは後者になると思います。理由は多岐に渡りますが、究極を言えば「自分に振り返ってくるから」です。今からそのこだわりが拡がっていく事により、結果的には「自分自身が認知症という状態になったとしても、安心して暮らしていく事ができる環境」へと近づいていくのではないでしょうか。
日ごろから意識をしていない方からすれば風のように通り過ぎていく、もしくは無風となってしまうのかもしれませんが、自分自身はこの呼び名にこだわり、より多くの方に風を感じていただけるような実践、啓もうを行っていきたいと思っています。
AB型の一人っ子さんへ
共に風をふかし続けていけるよう、僕も力尽くしていきたいと思いました
ありがとうございます
「認知症」は「状態」だということは頭では理解しているつもりでしたが、改めて考えてみると、「認知症の状態にある人」という表現を今まで自分が全くしていなかったと気付かされ、目からうろこでした。
理解している「つもり」であって、体には染み込んでいなかったと痛感しました。
ブログの中で言う「状態」とは、介護保険法第5条の2でいう認知症の定義、「日常生活に支障が生じる程度まで認知機能が低下した状態」になる訳ですが、そもそも「日常生活に支障」が生じなければ、どんなに「認知機能が低下した状態」であっても認知症では無い訳です。そう考えると、日常生活にどのくらい「支障」が出ているのか?という事を見極める「力」が重要になってくると考えられます。
そしてそれこそが、福祉職の魅力であり、醍醐味になるのではないでしょうか。
福祉職の関わりと環境によって「日常生活の支障」がどのように変化していくのか、また、変化しないのか、それは正解が無いからこそ魅力的なのだと思います。
ブログを読み返しながら、気が付きました。
「見極める力」だけでは無く、「手立てを描けるチカラ」、「それを実行できる力」が備わらなければ、意味がありませんでした。
改めて初心に戻り、考え行動して行きたいと思います。
隊長さんへ
福祉職の醍醐味は僕にはわかりませんが、僕の中で福祉職の専門性は「人々が幸福に暮らす生活環境を整えること」で着地していますので、整えるために必要なことのすべてを追求せざるを得ない仕事を選んだということですし、自業自得ですね。
これからも力尽くしていきましょう
認知症研修資料を読み返した時「認知症の人」と表現してありました。これは、私自身の意識が低くブログの中でおっしゃっている当人だったと反省しています。
和田さんのブログを何回も読み返し、認知症は病気ではなく状態。状態と捉えることで様々なアプローチが出来るようになるなとも思いました。言葉一つでここまで変わるのかと、今までのブログも読み返していきます。ひとまず、研修資料はすぐに修正して自分の言葉で説明が出来るように精進します。
いつも色々な気づきと発見をありがとうございます。
お米が美味しい県に住んでいますさんへ
まずは、うらやましい!
ステキなコメントをありがとうございました
僕らは見知らぬとはいえ大きくは仲間です
これからも共に気づきを増やして
社会に波風を立てていきましょう
ブログを読んでくださるとのこと嬉しいです
「認知症は状態」である…タイトルに興味が湧き読ませて頂きました。 認知症は「病気ではない」ことは理解していても「状態である」とは、ああそうか!と納得できました。
私事ですが、人として人を愛するのにその対象が同性だと「病気だ!」「変だ!」と言われ、いつの間にか自分自身を否定されてきたような気分になった時もありました。ですがこれも紛れもない私の「状態」なんですよね。
いつも和田さんのブログからは気付かされることが多く、以前コメントを返して頂いた時も自分の中にない気付きを与えて頂き、また考え方の癖を矯正して頂いたようでハッとしたことを覚えています。